南薩移民史秘話
「二つの祖国に生きて」
An Immigrant story from Nansatsu-Southern Satsuma

7.南水翁の帰米

翁は、1949年に熊本国税局に採用され、指宿税務署を振り出しに知覧税務署、川内税務署と、1960年5月に退官するまでの11年間、南九州地区の国税局に勤務する。この間妻を娶り3人の子宝に恵まれた。
米国の移民政策が緩くなってきたと思われる1954年末には、妹(17歳)が叔父が待つロサンゼルスへ単身渡米する。
同年11月父が頴娃で他界 (享年 62歳 )し、母親は妹と合流するために1956年ロサンゼルスへ帰米する。 ロサンゼルスではマンザナ収容所時代の友人のお世話になり、イチゴ畑での農作業やチョコレートエ場勤務などで生計を立てた。
1960年 (昭和35年)5月 翁は帰米のため税務署を退官する。 翁はそれ以前より米国で移民政策が緩んできたことから帰米を考え、各種の情報を探っていたと思われるが、その際アメリカ領事館より、戦時中日本国籍を留保していたこと(日米二重国籍)、日本軍に徴兵され軍務に服したとの理由で、米国籍が剥奪されていたことを知る (同様 な境遇者は約 5000人といわれる)。 
しかし幸いに1960年米国での国籍回復裁判の結果、ようやく米国生まれの米国人として米国籍を回復し、帰米できることになったものと推察される。
同月、翁 35歳 、妻 31歳、長女7歳 、長男5歳 、次女 2歳の一家5人は、母親と妹が待つロサンゼルスヘ移住するためプレジデント・ウィルソン号で横浜港を出港した。


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プレジデント・ウィルソン号(1973年頃)


南水家は同年6月2日にサンフランシスコに到着。 従兄弟およびすでに現地で日系人と結婚していた妹の出迎えを受けて、一家は車にてロスサンゼルスヘ移動した。
南水翁は帰米後、ロサンゼルス市内にて1995年に引退するまでの35年間 、親の庭園・造園業を引き継ぐ。

8.戦後米国での足跡

翁は造園業の傍ら、1967年短歌結社「潮音」に参加し、以降幹部同人としてカリフォルニアでの短歌の普及を推進する。そして1994年日本歌人クラブ主催による国際交流短歌大会 (3年ごとに開催 )の創設に設立委員として参画し、第一回ロスサンゼルス大会より、ハワイ、カナダ、続いて 2003年開催 の第四回「日タイ国際交流短歌大会」バンコク大会まで、選者の一人を務めるなど短歌を通じた国際交流を推進する。2003年568首の自作の歌を収めた歌集「二つの祖国に生きて」を上梓。

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歌集「二つの祖国に生きて」 2003年

その一方、カリフォルニアで鹿児島県人の絆の強化と後進の育成に尽力された。
帰米早々の1960年「南薩同郷人会」へ入会、1963年には「南加鹿児島県人会」に入会し、2002年から 2004年までの2年間会長を勤める。
1968年には「大正クラブ」に入会すると共に理事に就任し、会長 (1981年から1982年 )を経て逝去されるまで会報編集主幹を33年間勤められた。
2003年には「南加鹿児島県人会」内に英語を話す二世、三世で結成された「鹿児島ヘリテージ・クラブ」創立20周年を記念して、当時のミヤウチ会長(Margaret Miyauchi Leong氏)以下一行18名とともに須賀龍郎鹿児島県知事(知事在職1996-2004)の訪問を始め文化や技術交流を行った。
鹿児島県の国際交流関係年表に「南加県人会ヘリテージクラブ創立20周年里帰り頭脳交流事業実施」と記録されている。ヘリテージクラブの記録にも「brains exchange」の後、先祖の地を訪れ戸籍を確認した、とある。

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2003年3月 須賀龍郎鹿児島県知事主催の歓迎レセプションでの記念写真 於 鹿児島東急ホテル
最前列中央左が須賀知事、その右隣りが上村南水翁

 
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