南薩移民史秘話
「二つの祖国に生きて」
An Immigrant story from Nansatsu-Southern Satsuma

5.太平洋戦争と両親家族のご苦労

翁は1931年 (昭和6年)3月、 6歳のとき日本で教育を受けるために、母親に連れられ、4歳の妹と共に両親の故郷である鹿児島県揖宿郡頴娃町へ帰る。
母親は4年後に帰米し、鹿児島には兄妹二人が親戚に預けられて地元の学校通いを始めた。(妹は1942年に15歳で病死。)
1941年(昭和16年)12月、翁が旧制中学在学中(鹿児島商業)の時に太平洋戦争が始まる。
1942年6月1日、米国の父母と妹はカリフォルニア州マンザナのキャンプに収容される。
  マンザナのキャンプは正式にはManzanar War Relocation Center(当時の訳語はマンザナール戦時転住所)で、大統領令 9066号に基づき1942年に造られた11の日系人収容所 (収容者合計11万名 )の 一つである。  終戦の年の1945年 11月に開鎖されたが最大時収容者 10, 046名の大規模な施設であった。


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Japanese American Citizens League, Houston Chapter


1943年初頭に戦時転居当局はアメリカに対し忠誠心を持った収容者を西海岸から離れた地での住居と仕事を供給する事を目的に、17歳以上の日系アメリカ人収容者に対し「出所許可申請書」と題された忠誠心の調査を行った。特に質問の中で、以下の2点が忠誠登録の核となった。
質問27:貴方は命令を受けたら、如何なる地域であれ合衆国軍隊の戦闘任務に服しますか?
質問28:貴方は合衆国に忠誠を誓い、国内外における如何なる攻撃に対しても合衆国を忠実に守り、且つ日本国天皇、外国政府・団体への忠節・従順を誓って否定しますか?

しかし、翁は子供が日本へ帰国していることから忠誠登録を拒否したため、家族は「不忠誠組」とされツール・レーク(Tule Lake)収容所へ移送された。 このツール・レーク収容所は日本送還希望の一世と米市民権放棄の二世「不忠誠組」の隔離収容所であつた。その後更に米国籍を持たない不忠誠組日本人として父は家族と引き離されて、「不忠誠組」男子専用のニューメキシコ州のサンタフェ収容所に収監された。
1944年7月1日には、希望した収容者にアメリカ国籍の放棄の権利を与える「Public Law 405」が成立し、5589人の日系アメリカ人がアメリカ国籍を放棄し、その内1327人は終戦後に日本に送還された。多くの者は強制収容に対する怒りや抗議の意味で国籍を放棄したが、終戦後司法省が国外追放の用意を始めると事の重大さに気付いたという。

6.終戦に伴なう帰国と家族の再会

1946年1月、終戦に伴いサンタフェ収容所に一人隔離されていた父は、ツール・レーク収容所に残されていた家族と日本への帰国船上で再会する。
帰国船は神奈川県浦賀港へ到着し家族5人は列車で鹿児島へ移動した。 父母家族は枕崎駅到着後、出迎えの母の兄と伯父の荷車に乗り頴娃大川へと帰郷する。
その後1954年までの約7年間、鹿児島での家族生活が始まる。
 
翁は1942年(昭和17年)、皇紀2600年記念の「全国中学剣道大会(現在のインターハイ)」で団体優勝するなど文武両道にはげみ、1943年(昭和18年)1月には佐世保海軍建設部に入部、翌年4月招集され松山の航空隊配属となる。終戦後は佐世保地方復員局兼鹿児島援護局 (上陸連絡係り)勤務として復員業務に携わり、1946年 (昭和21年)12月1日付けで任務終了に伴い退職し家族に加わる。
翁は退職後、従兄弟と二人で建造した和船を使い、父と共に大川にて漁師生活を送る。 「魚の販売」と「頼母子」を中心とした地方色豊かな生活であつたと述懐されていたという。
 
敗戦で物資がないこの時期に米国在住者からは、留守家族や親せきに多数の物資が届けられ、1947年(昭和22年)に送金が可能となるとこれらが疲弊した南薩の地域ではかなりの潤いになったという。
一方米国においては1953年(昭和28年)に社会主義政権が誕生した欧州の国からの難民を受け入れることを主眼に難民救済法(Refugee Relief Act)が施行され、在米中国人の運動によりその対象範囲を東南アジアまで広げることとなった。 この「難民」とは政治以外の自然災害による被災者にも適用されたため1951年(昭和26年)ルース台風で甚大な被害が出た南薩地方でも難民救済法の適用を申請しようとする動きが広がった。
紆余曲折を経て、難民救済法が適用されるようになったがアジアに割り当てられた枠は合計3000名で、そのうち日本に割り当てられたのは1003であった。その後、1959年(昭和34年)には難民家族の呼び寄せが可能になり1100名の家族が一挙に渡米した。

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鹿児島県市町村からの難民申請数(昭和32年、1957年)

 
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