南薩移民史秘話
「二つの祖国に生きて」
An Immigrant story from Nansatsu-Southern Satsuma

2.米国の移民制限施策の推移

■1908年 米国在住の日本人の家族のみに米国移住を可能とする渡航制限開始
この渡航制限は非移民を除き「日本人が家族を日本から呼び寄せる」場合にのみ米国への渡航を認めることとするものであった。
これにより写真で結婚相手を選び、妻(家族)として日本から呼び寄せる「写真婚」が盛んになった。
 
■1913年 カリフォルニア排日土地法成立:外国(籍)人による土地所有の禁止と借地の制限
当時米本土の在留日本人は約6万人であったといわれその多くが農業従事者であった。
自営している農地はカリフォルニアで10,689ヘクタール(東京都世田谷区の約2倍)、買収途上の農地は15,000ヘクタールであった。
1913年の在米鹿児島県人は1401名(男1320名、女81名)で、その彼らが県内へ送金したり持ち帰った金額は50万円くらいであったという。当時の鹿児島県の教育予算が35万円であったことを考えると非常に多額であった。さらに1916年(大正5年)には南カリフォルニアから銀行経由で鹿児島に送られた金額は250万円まで増加した。
 
■1917年(大正6年)米政府による非移民の市民権、永住権の禁止と日本政府による写真婚の禁止
同年大正3年の桜島大噴火に対し県人会から300ドルが送られ、それに対し県人会へ銀杯、木杯が送られている。 翌1918年南カリフォルニアの日本人は15,320人で鹿児島県人は569人であった。
 

■1920年(大正9年)11月にノイマン法が成立し、帰化不可能な外国人の土地所有権が剥奪される
これにより日本人の土地所有、借地権等は一切剥奪される。 それまでは日本人が米国生まれの子の名義で土地を取得したり、保有する農地を継続して所有できたがそれも禁じられた。
 
■1924年(大正13年)排日移民法成立:帰化不可能な外国人の入国禁止
これにより、非移民を除き米国で働いて出身地へお金を送金するという(出稼ぎ)形での渡米は禁止された。
1924年日本における渡米ビザの発給数は4,064であったが、翌年にはわずか289となった。 駆け込み発給があったかは定かでないがこの数から出稼ぎ者数がいかに多かったか推測できる。

(表3)海外渡航者からの送金の推移
(昭和4年・1929年、昭和6年・1931年)
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