南薩移民史秘話
「二つの祖国に生きて」
An Immigrant story from Nansatsu-Southern Satsuma

1.翁誕生前夜、明治・大正時代の鹿児島からの海外渡航

翁の父はその兄を頼ってロサンゼルスに渡航したが、翁が誕生した時(1925年・大正14年)32歳であったことから推定してその数年前に渡米したと思われる。鹿児島県史によると大正5年(1916年)の海外在留の鹿児島県人は約4,490名で、米国には1,635名が記録されている。(表1)

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南薩地域から米国への渡航者の先駆けは、西南戦争後の明治10年(1877年)に渡米した知覧上郡(かみごおり)集落の的場八束(まとばやつか)という説がある。(渡航年については異論あり)
彼はサンフランシスコでカツオ漁船を保有して財を成したというがその後の消息はつかめていない。
「南加鹿児島県人誌」によると当時のサンフランシスコ周辺には約1,000人の日本人がいたという。1890年代に入るとサンフランシスコを中心とした鹿児島県出身者による北加鹿児島県人会が組織され、1895年にはロサンゼルスに北加鹿児島県人会南加支部が発足するなど、鹿児島県出身者は増加している。
翁の出身地である揖宿郡頴娃においては、1894年(明治27年)に渡航した摺木(するき)集落の摺木寅吉と前村松之助が最初の渡航者といわれる。

彼らは石工として働いていた知覧門之浦の医院の佐多征二医師からメキシコ移住を薦められ、メキシコにわたりそこから砂漠を越えてアメリカへ密入国している。その目的は、生産性が低い畑、台風常襲地帯である頴娃での生活を立て直すための「出稼ぎ」であったという。
薩頴新報第83号(昭和3年4月10日発行)の1926年(昭和2年)の鹿児島県の「県外出稼ぎ状況」によると、出稼ぎ者数は大阪に次いでアメリカ(本土)が多いことからも、上記の様子が推し量れる。(表2)
しかしこのような状況も、米国内の東洋人排斥運動の高まりから、米政府の移民政策の変更で大きな岐路に差し掛かる。

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